楷書、行書、草書。

著名な格闘技漫画「刃牙」シリーズは、「ゴキブリの中身は液体」などのトンデモ説をもっともらしく解説することで有名です。

「キン肉マン」や「魁!男塾」にも引けを取らないのではないでしょうか。
(あ、どれも格闘技漫画ですね。)

「刃牙道」86話で、また新しいトンデモ説が出てきました。

 

続きを読む

「体験すること」自体の意義

「プラネテス」や「ヴィンランド・サガ」で知られる漫画家の幸村誠氏(@makotoyukimura)が、Twitterで興味深い発言をしていた。

小学生のご子息の「夏休みの自由研究」について心配する内容である。

インターネット等の情報から「完成形のイメージ」は掴めているものの、実際に作ろうとして上手くいかないと投げ出してしまうらしい。

 

 

たしかに、私が小学生だった⚪︎十年前と比較し、現在の小学生が触れることができる情報の量は、インターネットによってかなり増大していることだろう。

が、昔だって完成形のイメージが全く無い状態で「手探り」していたわけではない。

「なまじ完成形のイメージがあるために、その通りにできないことがストレスになる」というのは、(私も含め)古今の多くの小学生に共通することではないだろうか。

 

 

そもそも、そのような「完成形のイメージ」として流布している情報は、ほとんどが大人の手によるものだろう。

小学生が同じレベルの完成度に仕上げることができなくても、当然だ。

課題を出す教師だって、まさかそんなレベルを要求しているわけではあるまい。

大事なのは、「過程を体験すること」そのものだと思う。

 

 

自分自身が行動を起こすことによって自分自身の内部に発生し、蓄積されていく特殊な情報。 それが「体験」だ。

これは、インターネットや書籍といった「外部」から入手することは決してできない。

もちろん、先生が教科書を使って授業で教えることもできない。

そういう「体験」を得させることが、自由研究の狙いなのではないだろうか。

なので、外部から情報として得た「完成形のイメージ」に拘り過ぎずに、過程そのものを楽しめるようなアプローチを採るのがいいと思う。

 

 

結果として出来上がったモノが大した完成度でなかったとしても、それは必ずしも問題ではあるまい。

 

「論点の掏り替え」に騙されてはいけない。

Facebook で肯定的に紹介されていたURLがあるのですが、私はそれを読んで違和感を覚えました。

なぜそう感じるのかじっくり考えてみたところ、質問に対して真っ直ぐ答えずに、論点を掏り替えて相手を煙に巻くような回答をしているからだとわかりました。

 

 

まずはこちらのURLをご覧ください。

この「Ask.fm」というサイトは、「Yahoo!知恵袋」に類するQ&Aサイトのようです。

 

 

私が違和感を覚えたのは、本旨の部分ではなく、余談として紹介されている家庭教師のエピソードです。

(本旨の部分に関しては、特に異論はありません。)

「数学を勉強することが何の役に立つのか」という生徒の質問に対して、「君が役立てようと思えば、武器になる。」と回答しています。

これは一見良い事を言っているようで、実際には論点を掏り替えて誤魔化しているだけです。

 

 

世の中には、「⚪︎⚪︎学」と名のつく学問分野が無数にあります。

学習する本人が「役立てよう」という気になれば、数学に限らず、どんな学問だって何らかの形できっと役立てられるはずです。

なので、日本全国の中高生に必ず数学を学ばせる理由にならず、質問に対して真っ直ぐ答えたことにならないのです。

(もし生徒が「俺は⚪︎⚪︎学を学んで役立てようと思っているから、数学はやらない」などと言い出したら、どうするつもりだったのでしょうか。)

 

 

中学・高校の必修科目として「数学」を採用しているのは、学校の先生でもなければ、教育委員会でもなく、文部科学省です。

文部科学省に「数学を学んで、こういうことに役立たせて欲しい」という明確な意図があるからこそ、採用されているのです。

だから、それを調べて回答すればよいだけのことです。

 

 

そういったことは、「学習指導要領」にちゃんと書いてあります。

文部科学省のWEBサイトで公開されているので、興味のある方は下記のリンク先をご参照ください。

学習指導要領等(ポイント、本文、解説等)(平成20年3月・平成21年3月)

 

 

中学・高校に共通する数学科の目標として「事象を数理的に考察する能力を養う」といったことが書かれています。

ざっくり言えば、「論理的思考力を訓練する一環」だということです。

決して、ピタゴラスの定理や二次方程式の解法を丸暗記すること自体に意味があるわけではありません。

 

 

現代の日本を支えている科学技術議会制民主主義も、国民一人一人に論理的思考力が備わっていなくては成り立たちません。

「なんとなく良い事を言っているようで実は論点を掏り替えている言説」に騙されないためにも、必要な力です。

 

 

こんなところに「きらきら星」が。

民放のアニメでは、多くの場合、オープニングとエンディングの後に「提供クレジット」の画面が表示されます。

響け!ユーフォニアム」では、主人公の黄前久美子の顔が回転する映像ですが、その背景には環状の楽譜があります。

この楽譜が何なのか気になったので調べてみたところ、「きらきら星」でした。

音部記号がバス記号なのは、ユーフォニアムが低音パートだからかな?

 

 

 

 

王様は本当に裸だったのか。

アンデルセンの童話の中に、「裸の王様」という有名な話があります。

(内容は大抵の人がご存知でしょうから割愛します。)

 

 

今日ふと、「王様は本当に裸だったのか?」ということが気になりました。

「愚か者には見えない布地」 とやらは、本当に存在しなかったのでしょうか?

布地を持ち込んだ二人の男は、本当に詐欺師だったのでしょうか?

 

 

よくよく考えてみると、その確証はどこにも無く、本当に「愚か者には見えない布地」だった可能性も排除できないような気がしてきました。

 

 

しかしさらに考えた結果、そんなことは実はどうでもよくて、一番大事なのは「王様は裸だ!」と言えることなのだと気づきました。

いろんな意味で。

 

ドボルザークの交響曲第九番

「とーおきー やーまにー ひーはおーちてー」という歌を知らない人は、滅多にいないと思います。

タイトルはそのまんま「遠き山に日は落ちて」です。

ドボルザークの交響曲の第二楽章に、堀内敬三という方が詩をつけたものだそうです。

(その他、同じ曲に野上彰という方が作詞した「家路」という歌もあります。)

 

 

曲として演奏される際には「新世界より」と題されているので、新世界というタイトルの交響曲から第二楽章だけ抜き出してきたので「より」なんだと思い込んでいましたが、交響曲のタイトル自体がすでに「新世界より」だということを最近知りました。

 

 

いやー思い込みって怖いですね。

表現の主体者

たまには時事ネタでも書いてみようと思います。

 

 

池上彰氏が、朝日新聞で連載しているコラムにおいて朝日新聞に批判的な内容を執筆したところ、掲載を拒否されて話題となっています。

(どうやら、結局は掲載されることになるようですが。)

 

 

このことで、朝日新聞社に対して「表現・言論の自由を侵害している」といった批判があるそうですが、この批判が正当なものなのか、私にはちょっと疑問です。

 

 

新聞というメディアを通じて何かを表現しようとしている「主体」は、「新聞社」と「個々の執筆者」のどちらなのでしょうか。

表現の主体者が新聞社自身であるなら、紙面を構成する「部品」としてどのような記事を取捨選択するかは、それこそ新聞社にとっての「表現の自由」のはずです。

また、朝日新聞が文句をつけた対象は、あくまでも(おそらくそれなりの)原稿料と交換に納品された池上彰氏の原稿です。

決して、池上彰氏個人の言論活動自体を妨害したわけではありません。

それを「言論弾圧」と呼ぶのは飛躍し過ぎかと思います。

 

 

もちろん、新聞社の外から新聞社の姿勢を批判することは万人の自由ですし、その新聞を買うかどうかも消費者の自由です。

クラムメディア

資格試験対策の問題集をやっているのだが、問題の選択肢と解答における「有線ネットワーク」が「優先ネットワーク」に誤訳されてた。

(解説文だけは正しく「有線」となっている。)

いや、これはもう誤訳ですらなくて、単なる翻訳者のタイプミスだろ。

勘弁してほしい。。。

 

 

閲覧数

このブログを FC2 から WordPress に移して以降、統計情報をよく見るようになりました。

一日ごとの訪問数を見てみると、平日は休日の数倍あり、如実に差が出ています。

このことから、このブログは主に職場の PC から閲覧されているのだと推察されます。

仕事とは無関係の記事も少なくありませんが、少しは誰かの役に立てているようです。