「体験すること」自体の意義

「プラネテス」や「ヴィンランド・サガ」で知られる漫画家の幸村誠氏(@makotoyukimura)が、Twitterで興味深い発言をしていた。

小学生のご子息の「夏休みの自由研究」について心配する内容である。

インターネット等の情報から「完成形のイメージ」は掴めているものの、実際に作ろうとして上手くいかないと投げ出してしまうらしい。

 

 

たしかに、私が小学生だった⚪︎十年前と比較し、現在の小学生が触れることができる情報の量は、インターネットによってかなり増大していることだろう。

が、昔だって完成形のイメージが全く無い状態で「手探り」していたわけではない。

「なまじ完成形のイメージがあるために、その通りにできないことがストレスになる」というのは、(私も含め)古今の多くの小学生に共通することではないだろうか。

 

 

そもそも、そのような「完成形のイメージ」として流布している情報は、ほとんどが大人の手によるものだろう。

小学生が同じレベルの完成度に仕上げることができなくても、当然だ。

課題を出す教師だって、まさかそんなレベルを要求しているわけではあるまい。

大事なのは、「過程を体験すること」そのものだと思う。

 

 

自分自身が行動を起こすことによって自分自身の内部に発生し、蓄積されていく特殊な情報。 それが「体験」だ。

これは、インターネットや書籍といった「外部」から入手することは決してできない。

もちろん、先生が教科書を使って授業で教えることもできない。

そういう「体験」を得させることが、自由研究の狙いなのではないだろうか。

なので、外部から情報として得た「完成形のイメージ」に拘り過ぎずに、過程そのものを楽しめるようなアプローチを採るのがいいと思う。

 

 

結果として出来上がったモノが大した完成度でなかったとしても、それは必ずしも問題ではあるまい。