企業の精神年齢

ISO9000で規格化されている「品質管理の手法」なんてのは、
なにも国際標準化機構が考え出したものではない。
品質の向上に血道を上げてきた、多くの先人たちの積み重ねた工夫
体系化・規格化したにすぎない。
(同時に、無個性化されてもいるが。)
なにもISO9000ばかりが品質管理ではないだろうが、
ある程度完成度の高い「理想形」をなしている。
そのため、自社の品質管理を未熟だと思っている企業が、
ISO9001取得活動を通して品質向上を目指すことがあるそうだが、
ちょっと待った、と言いたい。
たとえ「完成形はこうあるべき」というゴールが分かっていたとしても、
未熟な企業が一気に「その形」を目指すことなど可能なのだろうか?
最近子供が生まれた同僚が、ブログにこんなことを書いていた。
 「PCに向かってデジタルな仕事ばかりしていると、
  風邪を瞬時に直したり、自宅に瞬間移動したりしたくなる。
  PCでは簡単に出来ることだが、現実には不可能出。」
 「子供が急に成長し、明日しゃべり始めたりしたら悲しい。」
 「人はアナログな経験の積み重ねで成長する。」
結局のところ、企業の成長も似たようなものではなかろうか?
企業が成長するということは、成長するために必要な経験を積み重ねた結果でしかないのではないか。
他社が成長した姿をそのまま真似ることが、自社を成長させることではないはずだ。
あるISO9001の本に
 「標準化が出来る人に標準化は必要無く、
  標準化が出来ない人にこそ標準化は必要である。
  ISOはそういうジレンマを抱えている。」
と書いてあった。
規格で要求されているようなことが出来ていない会社というのは、
そもそも要求事項を理解する下地が無いのではないだろうか。
「こうしなさい」と言われて、「そうだ、こうすることが大事なんだ、必要なんだ」と理解できるのなら、
既にやっているはずである。
子供に詰め込み教育を施せば、たしかに知識は増えるはずだ。
しかし精神年齢はどうか?
人としての精神年齢は、年齢と共にしか成長しないものだ。
いや、正確に言えばそうでもない。
年齢の割に精神年齢が低い人も、中にはいる。
そういう人は、何が足りなかったのだろうか?
逆に、何を積み重ねれば人として成長できるのだろうか?
会社を本当に成長させるがそこにあると思う。
会社における”それ”を、短期間で経験させるメソッドがあったら・・・
普通の企業が十年かけて積み重ねる経験を、数年で積み重ねることが出来れば・・・
結果的に、数年でその企業は成熟した姿に近づくはずだ。

企業の5つの品質

「品質」ってなんだろう。
言葉としては、「この企業の製品はどれも品質が良い(悪い)」という使い方をする。
この用例においては、「品質」を「値段」や「ブランドイメージ」に置き換えても成立する。
「製品」、つまり何らかの仕事をした結果としての「成果物」の、
属性の一種として「品質」があることになる。
しかし、「属性」とは言い難いぐらい、「成果物」そのものと密接な関係にあるのも確かだ。
何もしないで寝ていれば、「成果物」はゼロで「品質」もゼロだ。
真面目にいい仕事をすれば、「成果物」が出来上がり「品質」も高い。
なので、「品質」≒「仕事の結果として産み出される成果物そのもの」と見なすことが出来る。
であれば、品質を左右するのは仕事の仕方そのものであり、ISOにおいてはそれを「プロセス」という。
企業の内部には、様々な仕事が存在します。
仕事が存在するということは、その成果として品質も存在します。
私はそれを5つに分類してみました。
顧客が対価を払うのは、値段が付けられる「製品」や「サービス」だけだが、
それ以外のところにも確かに「品質」は存在するのだ。
対価の対象となる「製品」や「サービス」を、「1次成果物」と言うことにしよう。
とにもかくにも、この品質を産み出さないことには商売にならない。
次に、顧客に提供されるが対価は払われない成果物を「2次成果物」と呼ぶことにします。
そんなものがあるのかって? よく考えてみて欲しい。
営業マンの態度が悪かったり、来客に対する接遇の仕方がいい加減だったりしたら、
当然、顧客に悪い印象を与えることになる。
その「印象」が仕事の成果物と言えるでしょう。
製品やサービスだけでなく、こういう品質の向上も目指さなければいけません。
次に、直接顧客には提供されない、内部の仕事の成果物を、「3次成果物」と呼ぶことにします。
これは、「仕事の仕方が効果的・効率的か否か」を指します。
同じ水準の製品を作り上げるにも、拙いやり方であれば、余計に時間とコストがかかってしまい、
結果として「割高な原価」、「長い納期」という成果物が生み出されてしまいます。
それでは、顧客からもらえる対価が同じでも、利益を圧迫してしまいます。
(納期に関しては、2次成果物に分類することも出来るかもしれません。)
また、直接生産活動に従事しない、間接部門の仕事の成果物を「4次成果物」と呼ぶことにしましょう。
生産活動の効率性をバックアップすることが彼等の仕事です。
これは「従業員満足度」としても測定可能ですし、3次成果物にも間接的に影響します。
企業の中にはもう一つ、「仕事」が残っています。
「経営」です。
経営者が下す各種「経営判断」の成果物としての、「会社の現状」自体が「5次成果物」です。
大雑把に5種類に分けてみました。
これらは、どんな企業にも存在するはずです。
この続きはまた後日。

会社は誰のものか?

   明けましておめでとうございます。
   つたないブログにお付き合いいただき、ありがとうございます。
   今年もよろしくお願いします。
「物言う株主」とやらが一世を風靡して以来、
会社は株主のものである」という認識が広まっている。
(そういえばあの人、今はどこで何をしているんでしょうね・・・)
それに対して、逆に、「会社は従業員のものだ」とか、「いやいや全ステークホルダーのものだ」
という意見も出ている。
それらのどれも、間違ってはいない。しかし、どれも私にはしっくりこなかった。
精神論や建前論ばかりが流布していて、どうも理論的に納得出来ない。
そこで、自分なりに考えてみた。
そもそも、会社は何から成り立っているか?
12/1にも書いたが、「人」そして「金」である。
これらのうち、「金」は、ほぼ出資者(株主)のものと言ってもいいだろう。
会社が自分で稼いだお金もあるだろうが、
それだって出資者からの出資が「元手」になっているはずだ。
では、「人」はどうだろう?
「人」は株主のものだろうか? 断じて違う。 当然だ。
「人」は、各個人の、自分自身のものである。
そして企業内の「人」は、二種類に分けられる。
経営者(経営層)」と「従業員」だ。 彼等の役割は明確に違う。
経営者は経営判断を下し、従業員は労働力を提供する。
経営者は、いかに経営センスと事業アイデアがあっても、
 自分の体一つではビジネスを大きく出来ないので、
 足りない資源を埋めるために出資を募り、従業員を雇う。
従業員には、投資するだけの資金や経営センスも事業アイデアも無いので、
 日々の糧を得るため、会社に労働力を提供してサラリーを得る。
投資家は、投資に回すお金はあっても、自身で事業を起こす
 経営センスや事業アイデアが無いので、それらを持った経営者に「出資」という形で託す。
つまり、「会社」という組織は、これら3者が「自分に足りないもの」を
互い埋め合うために寄り添うことで、初めて成立するのだ。
「会社」にあえて所有権を設定するなら、これら3者ということになる。
(経営者だけは、その気になればすべてを兼ねることができる。
 その場合は事実上の個人商店であり、会社を拡大することは出来ない。)
そして、少し視野を広げ、会社を静的な組織でなく、
動的な事業体として考えるなら、ここに「顧客」が加わる。
会社という組織が永続的に存続するには、顧客から対価を得ることは不可欠である。
顧客は、自分自身では、自身に必要な製品やサービスを産み出すことが出来ないので、
それを提供している企業に「対価」を払ってそれを得る。
これもやはり、「自分に無い点を埋める」行為と言える。
ここでいう「顧客」とは、将来対価を払ってくれるかもしれない潜在顧客も含む。
間接的かもしれないが、会社を10年だけ経営して畳むつもりでなければ、
潜在顧客の存在も重要なはずだ。
今の事業を未来永劫続けられるとも限らないし、
今の顧客が未来永劫取引を継続してくれる保証もどこにもないのだから。
【結論】
企業は、経営者と従業員と株主と顧客と、将来にわたっての潜在顧客のものである。
つまるところ、「社会全体」のものである。