某テレビ番組で、「未来のテクノロジー」に関する特集をやっていました。
「将来はこんな技術が実用化され、自動車交通はこう変わる」というような内容です。
それを見ていて感じた違和感が今日のテーマです。
一つ一つはすごい技術で、現代社会が抱える各種交通問題を
見事に解決・改善する青写真が紹介されていたのですが、
なんかちょっと引っかかったんですね。
そんな高度な技術が実現するぐらいだったら、
世の中の他の技術も大きく進歩しているはずです。
であれば、根本的な交通システム自体も変化しているかもしれません。
「エンジンとタイヤの付いた自動車で、舗装された道路を走り、
信号によってコントロールされる。」
という現代のスタイルが過去のものとなり、
解決すべき問題そのものが無くなっている可能性もあるわけです。
しかし少なくともその番組からは、そういう視点は感じられませんでした。
フォード社の創業者ヘンリー・フォードは
「もし『何が欲しいか』などとお客さんに尋ねていたら、
『もっと速い馬』という答えしか返ってこなかっただろう。」
という言葉を残しています。
今目に見えている個別の問題点を、
個別の技術を以って解決しようとするのがソリューション。
誰も目にしたことが無い、新しい世界観・価値観を
創造するのがイノベーション。
(当然そこには、新しい問題もあることでしょう。)
せっかく現実の制約を忘れて未来に思いを馳せるのであれば、
「現代の延長」ではない「新しい世界」を提案する番組に
してほしかったな、と思いました。
カテゴリー: ビジネス全般
不況時にすべきこと。
先日、某グループウェア専門企業の株主総会に行って参りました。
発表された事業計画のなかに、こういったものがありました。
「あらためて、グループウェア事業に特化する。
買収したものの、思ったようなシナジーが出なかった子会社は売却してゆく。」
いわゆる、「選択と集中」ってやつですね。
景気の良い時には、さらなる成長の可能性を模索し、未知の領域であっても
積極的に手を伸ばすことが大事だと思います。
そうしないことには、時代に取り残されかねません。
しかし、不況時は逆です。
そもそも未知の領域に手を伸ばす体力など、多くの企業には無いでしょう。
既知の領域が重要になってきます。
既知の領域とはつまり、すでに明らかになっている「自社の長所と短所」のことです。
長所に特化することがまず第一義。
そして、その足を引っ張る短所を埋める。
この2つが重要だと思います。
これは、企業のプロモーション活動にも影響します。
(特にBtoBの場合)
顧客の関心が「自社の既知の長所(と短所)をいかに伸ばすか(埋めるか)」
というテーマに向いているのであれば、
その顧客にモノやサービスを売る側も、自社のセールスポイントを分かりやすく明確にした上で、
「我々はそんなあなたの力になることが出来ますよ」と訴えかけなければいけません。
革新的なサービスや概念を創りだし、聞きなれないキャッチコピーを掲げても、
なかなか顧客は振り向いてくれないと思います。
「なんだかよく分からない、目新しいもの」は敬遠されてしまうでしょう。
たとえ自社のセールスポイントが革新的なものであったとしても、
最低限、顧客が最初に目にするキャッチコピー等は分かりやすくすべきだと思います。
分業化+一元化=効率化!?
一連の仕事を、各工程ごとに分業する意味とは何だろうか?
特別な深い知識や職能が必要とされる業務は、
その業務に特化した職能の持ち主である「専門家(ないし部署)」に
任せた方が、高い成果が期待できる。
社内各所で発生するその業務を特定の専門家に集約し、
一元的に処理するのが効率が良いはずだ。
専門家はその単一業務に集中することで、
さらなるスキルアップも出来るだろう。
では、「専門家」とは、それ以外の仕事をすべきでない、
またはしないで良いのだろうか?
どんな業務でも、多かれ少なかれ、
連携する前後の工程とのやりとりや、
事務処理が附随するものである。
特に前者は、「分業」という仕事の形態を採る以上は避けては通れない。
ここがいい加減だと、つまらないミスを誘発することとなり、
かえって仕事の質を低めてしまう。
「連携」のための作業自体は、何らかの付加価値を産むのではない。
だから、ついつい面倒に感じてなおざりにしてしまう。
「そんなことをしている暇があったら、自分の「専門業務」に集中していたい。」
と誰しも思うだろう。(私も思う。)
しかしそのツケはいつか必ず回ってくる。
分業を進めれば進めるほど、「連携」のための作業は増える。
それらをきちんとやらなければ「一連」の業務として機能しないし、
きちんとやったとしても、決して少なくない労力がそのために費されてしまう。
「一元化」と言えば聞こえはいいが、
かえって無駄を産む「細分化」は避けなくてはいけない。
本当に「特別な職能」が必要でなければ、他人任せにせず、
一連の業務を一人で担当する方が結果として効率的ではないだろうか。
誰でも出来ることは、自分でやるべきである。
そういった事をきちんと行った結果、附随する作業が膨らんでしまい、
集中すべき専門業務に時間がかけられなくなってしまったら・・・?
附随業務の効率化のために知恵を絞るしかないと思う。
仕事というのは、結局の所、その仕事を一番確実に、
迅速に出来る人がやるのが効率が良いのである。
自分の手元で済むことを、「自分の本来の仕事ではないから」と言って、
安易に人任せにしてはいけない。
それは結局、確実性も迅速性も損なうことになる。
頑張ることが仕事?
この記事を書くきっかけはISO関連だったのですが、カテゴリーはあえて「ビジネス全般」とします。
あるISOコンサルタントのサイトに、こんなことが書いてありました。
「分厚いマニュアルを作った会社を見習えば、分厚いマニュアルが出来あがります。」
当たり前過ぎて笑っちゃいますが、笑って済ませられる会社は意外と少ないのでは?
これって、ISO以外のあらゆる仕事にも共通していると思います。
頑張ることが仕事だと思っている人がシステムを構築すると、
頑張らないと維持できないシステムが出来上がります・・・・・
「プロ」って何?
「その仕事で生活が出来る人。」だとか、
「1円でもお金をもらえばプロ。」だとか、
ビジネスマンが100人いれば100通りの「プロフェッショナル像」がありそうだ。
私も長年、「しっくり」くる理屈が見つからずにもがいていたのだが、
ふとした兄との会話がきっかけで、かなり前進できた。
兄は建築設計の仕事をしている。
当然、現場に赴いて「図面通りに作っているか」をチェックするのも仕事のうちだ。
その兄が言う。
「どんなに腕のいい職人でも、報酬が安ければ恥ずかしい手抜き仕事を平気でする。」
つまり、きっちり値段分の仕事しかしないそうだ。
(それはそれでいい腕がある証かもしれないが。)
しかしそれでいいのだろうか?
仕事とは、報酬に対して責任を負うのだから、間違っているとは言えない。
職人の腕を評価せず、不当に値切る方が悪いとも言える。
しかしやはり何か引っかかる。
値段分の仕事しかしない人に、次の「何か」を期待するだろうか?
以前のブログにも書いたが、ビジネスとは基本的に永続性が前提である。
ビジネスそのものが期間限定キャンペーンであってはならない。
その視点が有るか無いかで、仕事の仕方は大きく変わってくる。
何がいいたいかというと、必ず、「次につながる」仕事をしなくてはいけない、ということ。
「その場限り」ではいけないのだ。
値段ぴったりの質の仕事しかしなかったら、顧客としては「まあこんなもんだな」としか思わない。
それだと、次の受注が来るとは限らない。
その水準の他の職人と、比較されてしまう。
「ためしに、今度はあの人に頼んでみようかな。」と思われたらアウトである。
そのためには、たとえ報酬を値切られようと、そのやや上の水準の仕事をしなくてはいけない。
「値段の割に良かったな」という安心感を顧客に与えれば、
「その値段ぴったり」のレベルの同業他社に仕事を取られる心配はない。
逆に、「次はもう少し大きな仕事を任せてみようかな。」と思ってもらえるかもしれない。
少々楽観的かもしれないが、少なくとも、値段ぴったりの仕事しかしなかった場合は
そんな風には思ってもらえないはずだ。
必ずしもこの方法でなくともいいが、常に「次」に繋がる仕事をしていなければ、
「趣味がたまたま上手くいった」のと大差ないのではないだろうか。
会社は誰のものか?
明けましておめでとうございます。
つたないブログにお付き合いいただき、ありがとうございます。
今年もよろしくお願いします。
「物言う株主」とやらが一世を風靡して以来、
「会社は株主のものである」という認識が広まっている。
(そういえばあの人、今はどこで何をしているんでしょうね・・・)
それに対して、逆に、「会社は従業員のものだ」とか、「いやいや全ステークホルダーのものだ」
という意見も出ている。
それらのどれも、間違ってはいない。しかし、どれも私にはしっくりこなかった。
精神論や建前論ばかりが流布していて、どうも理論的に納得出来ない。
そこで、自分なりに考えてみた。
そもそも、会社は何から成り立っているか?
12/1にも書いたが、「人」そして「金」である。
これらのうち、「金」は、ほぼ出資者(株主)のものと言ってもいいだろう。
会社が自分で稼いだお金もあるだろうが、
それだって出資者からの出資が「元手」になっているはずだ。
では、「人」はどうだろう?
「人」は株主のものだろうか? 断じて違う。 当然だ。
「人」は、各個人の、自分自身のものである。
そして企業内の「人」は、二種類に分けられる。
「経営者(経営層)」と「従業員」だ。 彼等の役割は明確に違う。
経営者は経営判断を下し、従業員は労働力を提供する。
◆経営者は、いかに経営センスと事業アイデアがあっても、
自分の体一つではビジネスを大きく出来ないので、
足りない資源を埋めるために出資を募り、従業員を雇う。
◆従業員には、投資するだけの資金や経営センスも事業アイデアも無いので、
日々の糧を得るため、会社に労働力を提供してサラリーを得る。
◆投資家は、投資に回すお金はあっても、自身で事業を起こす
経営センスや事業アイデアが無いので、それらを持った経営者に「出資」という形で託す。
つまり、「会社」という組織は、これら3者が「自分に足りないもの」を
互い埋め合うために寄り添うことで、初めて成立するのだ。
「会社」にあえて所有権を設定するなら、これら3者ということになる。
(経営者だけは、その気になればすべてを兼ねることができる。
その場合は事実上の個人商店であり、会社を拡大することは出来ない。)
そして、少し視野を広げ、会社を静的な組織でなく、
動的な事業体として考えるなら、ここに「顧客」が加わる。
会社という組織が永続的に存続するには、顧客から対価を得ることは不可欠である。
顧客は、自分自身では、自身に必要な製品やサービスを産み出すことが出来ないので、
それを提供している企業に「対価」を払ってそれを得る。
これもやはり、「自分に無い点を埋める」行為と言える。
ここでいう「顧客」とは、将来対価を払ってくれるかもしれない潜在顧客も含む。
間接的かもしれないが、会社を10年だけ経営して畳むつもりでなければ、
潜在顧客の存在も重要なはずだ。
今の事業を未来永劫続けられるとも限らないし、
今の顧客が未来永劫取引を継続してくれる保証もどこにもないのだから。
【結論】
企業は、経営者と従業員と株主と顧客と、将来にわたっての潜在顧客のものである。
つまるところ、「社会全体」のものである。
求人広告 ~募集側と応募側の思惑の差~
前回の続き。
企業が採用広告を出す時は、当然「こんな人に、我が社の社員になって欲しい」という
人物像を想定するだろう。
しかし、そういう広告を見て、そのイメージに合致する人が
「この会社に入りたい」と思ってくれるかは分からない。
ぜんぜん違うタイプの人に、「この会社に入りたい」と思われてしまうかもしれない。
応募者にとっては、採用広告だけが情報源ではない。
企業が自発的に出しているつもりではない情報も、
応募者からすれば判断材料になりえる。
たとえば東証一部上場の大企業が、
「チャレンジ精神旺盛な若者求む」という広告を出したところで、
チャレンジ精神旺盛な人たちは「じゃあ俺が入ってやろう」と考えて
こぞって応募してくるだろうか。
そういう人たちは、求人広告のキャッチコピーなどで判断せず、
むしろ大企業を避けてベンチャー企業に自身の将来を賭けるだろう。
(あるいは自分で起業してしまうだろう。)
求職者は皆、企業の思惑とは別に、
自分が「どういう会社に入りたいか」という志望を持っている。 当然だ。
そしてその条件に合致する会社を、様々なルートで情報を集め、判断している。
では、どんな求人広告を出せば、両者の希望をマッチングさせ、
企業が本当に求めるタイプの応募者を振り向かせることができるだろうか。
「こういう条件に合致する人を求めています」といって、
”選考基準”を前面に出すのでは駄目だと思う。
出すとしたら、「こういうモチベーションを持っている人は、うちで活躍できます」
というキャッチコピーがいいと思う。
そして、企業自体の情報は、基礎的な待遇情報以外はほとんど出さない。
調べられては意味が無いので、社名も出さない。
その方が、求職者自身が本当に持っている「こういう会社で働きたい」という
就職活動の「原動力」にストレートに訴えることが出来るはずだ。
しかし、社名も出さない広告に応募してくる人間となると、
間違いなくかなりのチャレンジャーばかりだろうな・・・
決してチャレンジャーが欲しい場合でなくとも・・・
企業の内的変質 ~構成員の入れ替わり~
人間の体は何で出来ているか。
物理的には、「食べたもの」から出来ている。
では企業は何で出来ているか?
やはり「人」だろう。 そして、「人」が行う日々の仕事が「企業活動」の実体だと言える。
人体を構成する物質は、約3か月で入れ替わるらしい。
だからダイエットの成果が出るのも3か月がかりだそうだ。
企業における「人」の場合、なにしろ入れ替わるスパンが数十年と長いので、
あまり「構成員の変容による企業の変質」を意識する人はいない。
しかし、気がついた時にはまるで別の企業になっている可能性もある。
企業の構成員が完全に入れ替わるには、
新入社員が定年退職するまでの「40年」という時間がかかる。
しかし、2008/12/23の記事にも書いたとおり、新入社員がミドルクラスになるまでの「20年」で、
体質の変化は表面化するのだ。
逆に、「企業の体質を最も左右するのはミドルクラスだ」とも言える。
企業の実態である「日々の業務」を、直接動かしているのはミドルクラスなので、
当然と言えば当然かもしれない。
採用業務というのは、まさに「国家百年の計」として考えなければいけない。
企業の内的変質 ~組織の在り方~
どんな企業でも、創業したてというのはたいがい数人だ。
一人ないし二人の創業者に、賛同者が何人か集まればいい方だろう。
多くの場合、創業者は自身の交友関係を元に人を集める。
創業まもない会社には知名度や信用が無く、求人広告は無意味だろうから。
気の合う仲間が集まり、事業を発展させるという夢を共有しているのだから、
自然とサークル的なノリが生まれ、和気あいあいとした職場になる。
しかし、ある程度事業が軌道に乗り、人数も増えてくるとそうはいかない。
当然ながら、創業者の友人などでない人間が大半を占めるようになる。
そういった組織を統率するには、それまでとは全く違うやり方が必要になる。
10人の組織というのは、5人の組織を倍にしたものではない。
全く異質なものだという認識が必要である。
30人の会社もまた異質であり、100人の会社も然り。
30人31脚という競技がある。
小学生を30人並べて足を結び、一斉に走るものだ。
「ああ、2人3脚の大人数版か」と思うなかれ。
私は、全く異質なものであると考える。
2人3脚が足並みをそろえるには、お互いに、隣の人間を見て気遣えば良い。
歩幅に差があっても、広い方が狭い方に合わせてやれば済む。
そうやって息が合ったペアを、15組集めて一列に繋げれば、
息の合った30人31脚が出来上がるだろうか?
まず無理だということはやらずとも分かるだろう。
テレビで放映している30人31脚を見ると、全員、お互いを気遣ったり歩幅を気にしたりせず、
全員が全力疾走している。
当然だ。
自分以外の29人を気遣うことなど不可能だし、歩幅や歩調を合わせる練習をしたところで
スピードなど出るわけがなく、勝負ならない。
それでも転倒せずにちゃんと走れるのには理由がある。
足の速い人間を真ん中に据え、両端にいくにつれ遅い人間を配置する。
これにより、全員が全力疾走しても列がバラバラになることはなく、
雁の群れのように「>」の形で走ることが出来るのだ。
こんな戦術は、2人3脚をやっている時にはまず考える必要が無かったことである。
30人31脚で勝つには、全く異質な統率と練習が必要になるのである。
人数が増えるということは、組織が相似形で大きくなるわけではなく、
質的な変化を伴うという良い例である。
その上で、古くからの構成員が、「こんな練習はいやだ。2人3脚をしていた時の方が楽しかった。」
と言い出したらどうするか。
経営者は決断を迫られる。
私は、組織の成長についてこれない人間とは袂を分かつしかないと考える。。
違う生き方を選ぶのも個人の自由だが、
組織の成長の足を引っ張る行為を許すわけにはいかないだろう。
就職人気ランキングとサラリーマンの官僚化
先日、日本を代表する某国際的大手製造業の関連会社の方とお話しする機会があった。
その方は、今は関連会社にいるが、元々はグループの本体に就職していた。
しかし、全社的に官僚化が進んでつまらない会社になってしまったので
飛び出したそうだ。
昔は、新規事業の話があれば我も我もと手を挙げたのに、
今は失敗のリスクを恐れてばかりで、誰もやりたがらない。
それがどうも、90年代初頭に「就職人気ランキング」の上位に入った頃から
入社してきた人たちらしい。
そういう人たちは、高い競争率を勝ち抜いただけあって
優秀には違いないのだが、「優秀だが役に立たない」そうだ。
「評判のいい大企業に入ろう」、という発想がそもそも安定志向とも言えるので、
当然と言えば当然なのかもしれない。
企業が大きくなるにつれ、歴史を重ねるにつれ、
見た目は同じでも"異質"な存在となる。
これは避けようがない。
経営のかじ取りとは、外的環境の変化だけでなく内的変質にも
柔軟に対応しなければならないのである。
難しいものだ。