品質マネジメントは、性善説。
情報セキュリティマネジメントは、性悪説。
なんとなくそう思いました。
思いつきなもんで、あまり深くは考えてはいませんが・・・
月: 2008年12月
CS考 ~調査対象編~
アンケート調査を有意義にするには、まず調査対象をどう設定し、
いかにその調査対象だけに答えてもらうかが大切だ。
対象外の人間の回答が混じってしまっては、信頼性が劣る。
上位の概念を外しては、末端の作業は的外れで無意味なものになってしまうので、
まずは目的からしっかり固めていこう。
そもそも、なぜ顧客満足度アンケートをしなくてはいけないのか?
顧客とは満足させなければいけないものであり、
もし現状で満足させられていないとしたら、改善が必要だからだ。
だから、調査により、顧客の不満点や改善要望点を洗い出さなければならない。
では、誰にアンケートを答えてもらえばよいだろうか?
「顧客」という大きなくくりではなく、もうちょっと詳細に考えてみよう。
それを考える上で大事なのが、
「顧客を満足させられなかった場合、どういう不都合が起こり得るのか?」だ。
考えられる不都合としては、
・次の注文が来ない(リピーターになっていただけない)」
・不満をもった顧客が、友人に「あそこは駄目だ」という情報を流す
ということが考えられる。
それを回避し、「リピーターになっていただく」、「良い情報を振りまいていただく」
という状態に持っていかなくてはならない。
そのために、顧客満足度についてわざわざアンケートをするのだ。
ここではひとまず、前者について考えてみよう。
顧客が1個人ではなく、複数の人間から成る団体や組織の場合、
必ず「意志決定権者」がいるはずである。
家族連れをターゲットとしたファミリーレストランではどうか。
家族の中に、きっと「どこに食べに行くか」を決定する人間がいるはずである。
おそらく父親か母親のどちらかだろう。
そして忘れてはいけないのが、「決定権者の決定を左右する意見具申者」である。
決定をするのは親でも、親は子供の希望を聞いて決めているのかもしれない。
この場合は、子供を満足させ、「あのお店にまた行きたい!」と言わせれば
家族ごとリピーターになってくれるに違いない。
であれば、満足していただけたか否かを把握しなくてはいけないのはその子供であり、
アンケートの対象としてその子供を選定するのが妥当である。
BtoBの取引においても同じで、
「次の受注をいただくためには、誰を満足させなければいけないのか?」が重要だ。
それは発注業者を選別する「意思決定権者」だ。
現場の担当者レベルで仲良くなっても、気付かないうちに
意思決定権者を不満にさせてしまったら、次の注文は来ない。
だが、ある程度大きな企業においては、意思決定権者は部長・役員クラスの偉い人で、
現場のことはよく分かってないこともある。
(それに、そんな偉い人たちに、アンケートに直接記入してもらうことは期待できない。)
では、その偉い人たちは、現場を知らないのになぜ決定を下せるのか?
それは、現場にいる「信頼出来る部下」からの報告を元に決めているからだ。
ファミレスの例でいうところの「子供」にあたる。
そういった人にアンケートを書いてもらうには、あらかじめ仕事をしながら
「この顧客の意思決定権者は誰か?」
「決定権者から信頼されている、意見具申者は誰か?」を見抜かなければならない。
「意見具申者」を見抜くのは結構難しい。
ただ単に「現場で一番肩書きが高い人」とは限らないからだ。
顧客企業の内部における、決定権者との人間関係を見極める必要がある。
これを見抜くのは営業の仕事である。
営業がそれを分かっていなければ、「誰に対して営業しているの?」と突っ込まれてしまうからだ。
アンケートを送る以前の問題として、営業が意思決定権者や意見具申者を
満足させられなければ、最初の受注すらもらえないからだ。
しかしやはり問題はある。
顧客満足度調査を行う上で、「営業から言われた通りに調査すればいいのか?」という問題である。
業務の性質上、営業からは独立している必要もあるはずだ。
営業からの報告とは別に、調査対象を選定する基準が必要なのかもしれない。
CS考
CS(Customer satisfaction)とは「顧客満足」のこと。
たいていの企業では、定期的に「顧客満足度」の調査を行い、
業務にフィードバックしているだろう。
少なくとも、しているつもりだろう。
しかし、ちゃんと有意義なフィードバックが出来ている企業は少ないのではないだろうか。
多くの場合、顧客満足度の測定は「アンケート」形式で行われる。
これをいかに作成するかで、有意義なデータが集められるかが決まる。
誰に書いてもらうかで、やはり有意義なデータが集められるかが決まる。
そして、いかに分析(集計ではない)するかで、有意義な情報が得られるかが決まる。
営業的な戦略が前提に無ければ、そもそも調査は始められないし、
学術的なアプローチも求められるので実は結構難しいはずなのだが、
そのことにすら気付かずに安易にやっている企業が多いと思う。
なんとなく作ってなんとなく集めて、表やグラフを作って終わり。
それで仕事をした気になっているケースが多いのではないだろうか。
求人広告 ~募集側と応募側の思惑の差~
前回の続き。
企業が採用広告を出す時は、当然「こんな人に、我が社の社員になって欲しい」という
人物像を想定するだろう。
しかし、そういう広告を見て、そのイメージに合致する人が
「この会社に入りたい」と思ってくれるかは分からない。
ぜんぜん違うタイプの人に、「この会社に入りたい」と思われてしまうかもしれない。
応募者にとっては、採用広告だけが情報源ではない。
企業が自発的に出しているつもりではない情報も、
応募者からすれば判断材料になりえる。
たとえば東証一部上場の大企業が、
「チャレンジ精神旺盛な若者求む」という広告を出したところで、
チャレンジ精神旺盛な人たちは「じゃあ俺が入ってやろう」と考えて
こぞって応募してくるだろうか。
そういう人たちは、求人広告のキャッチコピーなどで判断せず、
むしろ大企業を避けてベンチャー企業に自身の将来を賭けるだろう。
(あるいは自分で起業してしまうだろう。)
求職者は皆、企業の思惑とは別に、
自分が「どういう会社に入りたいか」という志望を持っている。 当然だ。
そしてその条件に合致する会社を、様々なルートで情報を集め、判断している。
では、どんな求人広告を出せば、両者の希望をマッチングさせ、
企業が本当に求めるタイプの応募者を振り向かせることができるだろうか。
「こういう条件に合致する人を求めています」といって、
”選考基準”を前面に出すのでは駄目だと思う。
出すとしたら、「こういうモチベーションを持っている人は、うちで活躍できます」
というキャッチコピーがいいと思う。
そして、企業自体の情報は、基礎的な待遇情報以外はほとんど出さない。
調べられては意味が無いので、社名も出さない。
その方が、求職者自身が本当に持っている「こういう会社で働きたい」という
就職活動の「原動力」にストレートに訴えることが出来るはずだ。
しかし、社名も出さない広告に応募してくる人間となると、
間違いなくかなりのチャレンジャーばかりだろうな・・・
決してチャレンジャーが欲しい場合でなくとも・・・
企業の内的変質 ~構成員の入れ替わり~
人間の体は何で出来ているか。
物理的には、「食べたもの」から出来ている。
では企業は何で出来ているか?
やはり「人」だろう。 そして、「人」が行う日々の仕事が「企業活動」の実体だと言える。
人体を構成する物質は、約3か月で入れ替わるらしい。
だからダイエットの成果が出るのも3か月がかりだそうだ。
企業における「人」の場合、なにしろ入れ替わるスパンが数十年と長いので、
あまり「構成員の変容による企業の変質」を意識する人はいない。
しかし、気がついた時にはまるで別の企業になっている可能性もある。
企業の構成員が完全に入れ替わるには、
新入社員が定年退職するまでの「40年」という時間がかかる。
しかし、2008/12/23の記事にも書いたとおり、新入社員がミドルクラスになるまでの「20年」で、
体質の変化は表面化するのだ。
逆に、「企業の体質を最も左右するのはミドルクラスだ」とも言える。
企業の実態である「日々の業務」を、直接動かしているのはミドルクラスなので、
当然と言えば当然かもしれない。
採用業務というのは、まさに「国家百年の計」として考えなければいけない。
企業の内的変質 ~組織の在り方~
どんな企業でも、創業したてというのはたいがい数人だ。
一人ないし二人の創業者に、賛同者が何人か集まればいい方だろう。
多くの場合、創業者は自身の交友関係を元に人を集める。
創業まもない会社には知名度や信用が無く、求人広告は無意味だろうから。
気の合う仲間が集まり、事業を発展させるという夢を共有しているのだから、
自然とサークル的なノリが生まれ、和気あいあいとした職場になる。
しかし、ある程度事業が軌道に乗り、人数も増えてくるとそうはいかない。
当然ながら、創業者の友人などでない人間が大半を占めるようになる。
そういった組織を統率するには、それまでとは全く違うやり方が必要になる。
10人の組織というのは、5人の組織を倍にしたものではない。
全く異質なものだという認識が必要である。
30人の会社もまた異質であり、100人の会社も然り。
30人31脚という競技がある。
小学生を30人並べて足を結び、一斉に走るものだ。
「ああ、2人3脚の大人数版か」と思うなかれ。
私は、全く異質なものであると考える。
2人3脚が足並みをそろえるには、お互いに、隣の人間を見て気遣えば良い。
歩幅に差があっても、広い方が狭い方に合わせてやれば済む。
そうやって息が合ったペアを、15組集めて一列に繋げれば、
息の合った30人31脚が出来上がるだろうか?
まず無理だということはやらずとも分かるだろう。
テレビで放映している30人31脚を見ると、全員、お互いを気遣ったり歩幅を気にしたりせず、
全員が全力疾走している。
当然だ。
自分以外の29人を気遣うことなど不可能だし、歩幅や歩調を合わせる練習をしたところで
スピードなど出るわけがなく、勝負ならない。
それでも転倒せずにちゃんと走れるのには理由がある。
足の速い人間を真ん中に据え、両端にいくにつれ遅い人間を配置する。
これにより、全員が全力疾走しても列がバラバラになることはなく、
雁の群れのように「>」の形で走ることが出来るのだ。
こんな戦術は、2人3脚をやっている時にはまず考える必要が無かったことである。
30人31脚で勝つには、全く異質な統率と練習が必要になるのである。
人数が増えるということは、組織が相似形で大きくなるわけではなく、
質的な変化を伴うという良い例である。
その上で、古くからの構成員が、「こんな練習はいやだ。2人3脚をしていた時の方が楽しかった。」
と言い出したらどうするか。
経営者は決断を迫られる。
私は、組織の成長についてこれない人間とは袂を分かつしかないと考える。。
違う生き方を選ぶのも個人の自由だが、
組織の成長の足を引っ張る行為を許すわけにはいかないだろう。
就職人気ランキングとサラリーマンの官僚化
先日、日本を代表する某国際的大手製造業の関連会社の方とお話しする機会があった。
その方は、今は関連会社にいるが、元々はグループの本体に就職していた。
しかし、全社的に官僚化が進んでつまらない会社になってしまったので
飛び出したそうだ。
昔は、新規事業の話があれば我も我もと手を挙げたのに、
今は失敗のリスクを恐れてばかりで、誰もやりたがらない。
それがどうも、90年代初頭に「就職人気ランキング」の上位に入った頃から
入社してきた人たちらしい。
そういう人たちは、高い競争率を勝ち抜いただけあって
優秀には違いないのだが、「優秀だが役に立たない」そうだ。
「評判のいい大企業に入ろう」、という発想がそもそも安定志向とも言えるので、
当然と言えば当然なのかもしれない。
企業が大きくなるにつれ、歴史を重ねるにつれ、
見た目は同じでも"異質"な存在となる。
これは避けようがない。
経営のかじ取りとは、外的環境の変化だけでなく内的変質にも
柔軟に対応しなければならないのである。
難しいものだ。
企業の責任
会社を創ったからといって、大儲けしなければいけない義務などない。
一攫千金を狙うか、地道に稼いでそれなりの生活を送るかは、経営者の自由だ。
しかし、零細企業だろうが一部上場のグローバル企業だろうが、
共通して言えることがある。
会社を創った以上、「 コカしてはいけない責任 」があるということだ。
会社を潰さないことが、顧客や取引先、そして従業員に対する、最低限の責任だと思う。
リスクを犯さなければ大成功など出来ないが、それ以前のもっと大事なことだ。
たとえ利幅は薄くても、安定して長期的に入金されるビジネスモデルの構築が鍵となる。
商談、納品、入金を都度繰り返す物販よりも、
いわゆる保守サービスと言われるビジネスの方が安定しているだろう。
それも、不況時にまっさきに経費節減の対象にされてしまう
「転ばぬ先の杖」的な保守サービスよりも、具体的なメリットを日々実感していただける方がいい。
顧客のビジネスモデル自体に深く食い込んでいるサービスなら、
そうそう簡単に契約を切られることもないだろう。
企業は 人、モノ、金。 間違ってはいないけど。。
どこか違和感を感じるので、じっくり考えてみた。
モノなんて、所詮はお金で買えるんですよ。
安い、高いは相対的な問題でしかない。
だから、お金の下位概念なんだな。 並びたつ概念では、絶対ない。
じゃ、人とお金は?
これは難しい。
どちらも同じぐらい大切なものだ。
一時は経営者として尊敬を集めながら、
最後は資金繰りがショートして命を絶つ人だって大勢いる。
軽々しく「人間が大事だYO!」なんて言うつもりはない。
でもやっぱり根本的な違いはある。
人は仕事を通してお金を産むことが出来るが、
お金が人を産むことはない。