宿営地到着後、グラウンドにて全体説明(必要な事ではあるが結構長い。)があって、宿舎入り。
荷解きをして作業用の装備を整え、ヘルメットや安全中敷などの貸し出しを受け、再度グラウンドに集合。
この間、はっきり覚えていないのですが、あまり時間に余裕が無く、結構あわただしかった気がします。
おかげで朝飯を食いそびれました。
前夜、地元のラーメン花月で18時半頃に早めの夕食を食べて以来、
お腹に入れたのは道の駅おおさとで未明に食べたお菓子やジュースのみ。
これから参加される方はご注意ください。
宿営地とは別に複数の「活動拠点」があり、私のチームは石巻駅南側の
「あいプラザ・石巻」(宮城県石巻市立町1丁目7-3)へバスへ移動しました。
そこでチームごとにスコップや一輪車などの作業道具一式を借り、各作業場へ移動します。
↓活動拠点の道具置場はこんな感じです。
移動中気がついたのですが、電気が復旧していないので信号機も消えています。
一部の大きな交差点でのみ、お巡りさんが立って交通整理をしているぐらいです。
炎天下では相当キツイはずです。
私のチームの仕事は、取り壊しが決まっている民家兼店舗(飲食店)の家財道具を、
隣の空き地(ゴミ集積所)へ運び出す、というものでした。
家主さんと一緒に、5人での作業となります。
ごく一部の捨てないモノ(アルバムなど)は家主さんがすでに選り分けてあるので、
あとは全てゴミとして運び出すのみです。
内部はほぼ手つかずで、1階の床はに4~6cmほどヘドロが堆積していて、2階の畳にはキノコが生えていました。
ヘドロの除去は、全体的にではなく、作業動線を確保するためだけに行いました。
結構滑るので、そのままでは作業できません。
飲食店なので、大きめの冷蔵庫やガスレンジがあり運ぶのに苦労しましたが、
あとは比較的小さいものばかりなので、ひたすら一輪車に積み込んでゴミ集積所と往復です。
2階のモノはもうガンガン窓から落としました。
ガスレンジのホースはガッチリ固定されていて外す工具がなかったので
隣で工事をしている大工さんから鋸を借りて切りました。
あとから聞いたのですが、「鋸を使った作業」は、どこかの省庁が定めているらしい
ボランティア活動の安全指針から逸脱しているそうです。
万が一怪我でもしてたら、ちょっとややこしいことになってたかも。
水を吸った畳は恐ろしく重いので、家主さんの判断で手を付けませんでした。
(基本的には、そういった判断はすべて家主さんが行います。
ボランティアは作業のお手伝いをするのみ、というスタンスです。)
倒れた食器棚は、中身を取り除いた後、ハンマーでガンガン殴って解体してから運び出しました。
ただでさえ足元が不安定ですし、丁寧に扱う必要もないので、効率重視です。
こういう作業はなかなか気分がスッキリするものです。
いえ、別に誰かの顔を思い起こしながら壊してたわけじゃないですよ。
作業の最大の敵は、何と言っても「暑さ」です。
作業開始前にツナギの防水ヤッケを着ようとしましたが、確実に熱中症になると思ったので上は脱ぎました。
休憩も40分おきぐらいに取り、決して無理はしませんでした。
首に巻く濡れタオルは必須です。
一応チームのリーダーなのでメンバーの体調には気を配っていたのですが、
ホントの事を言うと、私自身が結構危なかったんです。
なにしろ、ほとんど寝てないもんで。
基本的には休憩中の水分補給などは自分持ちということになっていたのですが、
「熱中飴」なる飴が活動拠点で配られていたほか、家主さんから休憩の度にキンキンに冷えたジュースを頂きました。
おかげでだいぶ楽になりました。他のチームと比べると、かなりラッキーな現場だったはずです。
12時にはいったん現場から活動拠点に戻り、配布された昼食(おにぎり2個)を食べて1時間ほど休みました。
自分で持っていったチョコレートは、鞄から出したらドロドロに溶けていたので見なかったことにしました。
こういう現場には飴が最適です。
休憩中には、家主さんからいろいろお話を聞きました。
震災当時は石巻ではなく松島のあたりで車を運転中だったそうで津波警報を聞いて高台へと急ぎ、難を逃れたとのこと。
家主さんは高校生の時にチリ大地震の津波を体験して津波の恐ろしさを知っているためすぐに避難したそうです。
津波警報に半信半疑の人もいたそうですが。
チリ大地震の津波の時は、直前に海の水が引いていき、旧北上川の川幅がどんどん細くなっていったそうです。
そして、壁のような津波が、200トン、300トンサイズの漁船をゴロゴロ転がしながら川を上ってきたんだとか。
よくその時死ななかったな~ と思いました。
二日目の現場の家主さんもそうでしたが、被災地の方々は饒舌でした。
特にこちらから聞き出すようなこともしていないのですが、ご自身の体験を語ってくれます。
きっと、人に話すことがストレスの発散や、自分の気持ちを整理することになるのでしょう。
住民の多くは疎開しているのか、街中に人影はまばらですし、
残っている住民も同じ体験をした被災者同士ですから、話し相手としては不向きです。
外から来たボランティア達を相手に話す方が、効果的なのだと思います。
そういう話に耳を傾け、受け止めることも、立派な支援活動の一種です。
全体のスケジュールもあり、作業は14時半で終了です。
すべての家財道具を出し切ってスッカラカンに出来たわけではないのですが、
残っている物はそう大きくはないモノばかりで、概ね片付きました。
家主さんも、「ここまで片付けば、後は一人でも出来る」と言ってくださったので、この現場は完了です。
集積所に積み上がった家財道具をあらためて見てみると・・・・
「無理。一人じゃ絶対無理。」という量です。
そりゃ時間さえかければ理論上はなんとかなるはずですけど、
もし私が家主さんの立場だったら、とてもじゃないけど手を付ける気にもならなかったでしょう。
上述の交通整理の件もそうですが、被災地はまだまだ万事につけて「人海戦術」が必要な段階です。
まともに復旧しているのは道路ぐらいで、まだまだ手つかずの家屋が多く残っています。
住民の方々だけでは手が足りません。
↓まだこんな建物も残ってます。
石巻市は、市区町村単位での集計では最も死者・行方不明者が多いところです。
しかし、復興活動を統括するお役所の機能の復旧が早かったため、ボランティア活動を受け入れる体制も
他の自治体よりは比較的整っており、復旧が進んでいる方なんだそうです。
よその自治体では、その機能自体が震災でダメになったところが多いと聞きました。
ということは、石巻市以上に手つかずの場所がまだまだあるということでしょうか・・・!?
復興までの道のりはまだまだ遠そうです。
しかし、子供たちが笑顔で走り回って遊んでいるのを見ると、
なんとなく、「日本は大丈夫だ。」という気になりました。根拠はありませんが。
道具をまとめて現場を後にし、発動機付き高圧洗浄機のある「洗い場」で
スコップなどの道具についたヘドロを落としてました。
そして活動拠点へ戻ってきたのがたしか15時頃です。
なお、ボランティアが洗い場の排水溝を詰まらせていては何をしに来たのか分かりませんので、
道具のヘドロはある程度現場で落としておくのがマナーです。
・・・日和山編へ続く