「幸福はお金で買えない」とよく言います。
おそらく大半の人はそう思っているでしょう。
私もそう思います。
(ただ単に、大半の人は幸福を買えるほどの大金を手にした経験が無いだけかもしれませんけど・・・)
ですが、それでもやっぱり大半の人は「お金が欲しい」でしょう。
私も欲しい。
実際、ノーベル経済学賞受賞者である米プリンストン大学の心理学者ダニエル・カーネマン教授の研究によると、「年収約800万円までは、収入と幸福度は比例する」んだそうです。
日経マネーセレクション(2016年6月18日)「お金でそれだけ幸せになるのか」
なかなか興味深い研究です。
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私はカーネマン教授のこの論文を読んだことはありませんが、「一定収入までは比例し、それ以上が頭打ちになる」の理由について、なんとなく想像がつきます。 (単なる想像であって、たいした根拠は無いんですけど。) その理由とは、「お金は、不幸を回避ないし極小化するために有用だから」です。 収入の多寡は、幸福度そのものを(たぶん)直接は左右しません。 なぜなら、病気や怪我などのシンプルなタイプの不幸は、お金の力でどうにかできることが多いからです。 後遺症等で生活に支障が出てしまう場合も、お金があれば生活の質の低下をある程度は押し留めることができます。 逆に言うと、お金が無ければ多くの不幸が「直撃」してしまいます。 お金の力で不幸の直撃をできるだけ避けることこそ、幸福を追求するためにまず必要なことなのではないでしょうか。
しかし、お金の力でどうにかできるタイプの不幸を一通りどうにかしてしまったら、 だから「頭打ち」になるんだと思います。 |
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ここで大事なのは、「幸福」と「不幸」を全くの別物として捉えている点です。
私は、それらは「同一軸線上の対立概念」ではないと考えています。 |
「幸福(不幸)度が高くなければ、即ち不幸(幸福)度が高い」とはなりません。
両方が高い、あるいは両方が低いこともあり得るはずです。
幸福を追求する能力がおそろしく高い人なら、金が無くて不幸の直撃を受け続けながらも、「人生のトータル満足度」を黒字決算に持ち込めるかもしれません。
逆に、大部分の不幸をお金で解決することに成功しても、幸福を追求することが下手過ぎる人なら、赤字になるでしょう。
これらはあくまでも極端な例であって、大半の人の「幸福を追求する能力」は高くも低くも無いでしょう。
なので、
「お金の力で不幸をどうにかできた度合い」≒「幸福の追求に注力できる心の余裕」≒「幸福を感じる度合い」
という数式が成り立つんだと思います。