「疑う」の反対は「信じる」なのか?

信じていなければ、其れ即ち疑っていることになるのだろうか。

疑っていなければ、其れ即ち信じていることになるのだろうか。

どちらにも当てはまらない状態だってあるはずです。信じる根拠疑う根拠も特に無ければ、自然とそういう状態になるはずです。むしろ、現実にはそういう状態の方が多いのではないでしょうか。

 

 

数年前、食品偽装のニュースが連日世間を賑わせている時期が有りました。

最近はそういった報道も減りましたが、パッケージに印刷されている各種表示がどこまで真実かなんて、一般の消費者には調べようが無いことは今も変わりません。

ただ、偽装がバレた場合のダメージは半端なものではないので、「そんな馬鹿な事をする企業は(確率的に)滅多に無いはずだ」と考え、疑うことを止めている消費者が殆どだと思います。そこには暗黙の「お約束」があるわけです。

それは当然の選択です。信じる根拠にしろ疑う根拠にしろ、明確な根拠を調べて見つけ出すのはそれなりに大変なことですから。ある程度「お約束」に頼らないことには、社会・経済は立ち行きません。

真実を調べあげるために必要な労力と、騙される確率、騙されたままでいることによる損害を天秤にかけ「とりあえず疑わない」という結論が出る事は珍しくないはずです。

でもそれは、決して「信じて」いるわけではないはずです。

 

 

人が何かを「信じる」ことの、本当の意味とは何なのだろう? と考えている中での思いつきでした。

でも眠いからもう寝ます。